『行き着くところ』


WRITTEN BY SAFIA






ちゃぷんっ


ちゃぷんっ


湖面を吹き渡る風の起こしたさざなみが、増幅され足元に打ち寄せる。

単調にいったいどれくらい聞いていたのだろう。

眩しかった朝日は、すでに傾き夕日になろうとしている。

「もういいよね」

この一週間考えつづけていたことを声に出してみる、

答えはない。

あるはずがない。

けど、今にも聞こえてきそうで、少年はそこから動くことができなかった。






少年の柔らかそうな黒髪が風になびいている。

夕刻になり、少し風が強くなってきたようだ。


「碇君」


声に出さずに呟いてみる。

かつてあった想いは、今の私には、ない。

今、私がここにいるのは、私の創造主がそう命じたから。

最後の使徒を殺したときから、さらに不安定になってしまった少年を監視するため。

でも、なぜだろう。

何も特別なことなどないはずなのに、彼だけが別格の存在。

他に並び立つもののない位置を私のうちに持っている。

湖。

二人目の私が消えたところ。

彼が最後の使徒と出遭ったところ。

私が監視し始めてから、毎日彼はここにやってくる。

一日中、私が声をかけるまで立ち続けている。

ここに来るたびに彼の表情は穏やかになっていく。

赤城博士は、ずっと私と一緒にいるからだろうといっていた。

彼は私が好きだったから。

でも、私はそれが違うことを知っている。

彼は私が二人目とは違うことをわかっている。

私の後ろに二人目を見ることはない。

そして、私を見ることもない。


ざあっ


思考の海に沈んでいた私を引き上げるかのように風が吹いた。

日が沈みかけている。

彼は相変わらず湖を眺めている。

彼が何を見ているのかは、私にはわからない。

彼は目で見ているのではないから。

二人目ならばわかったのだろうか。

また沈みそうになる思考に気を取り直して、彼に声をかける。


「碇君」


彼が振り向く。

朝よりも更に穏やかな顔をしている。

彼の顔が穏やかになるたびに、私の胸の奥にもやもやしたものが溜まってゆく。

胸が重い。

確かに安定はしてきているのだろう。

でも歪んだまま安定してしまった彼の心は、どこに行き着くのだろう。

・・・・・。

また私は考えている。

彼のことなど何とも思っていないはずなのに。

まして、自分のことなど考えることもなかったのに。


「かえりましょう」


いつものように彼の手を取る。

彼もいつものように私に手を引かれて歩き出す。

いつものように沈み行く夕日に見送られながら。






月の光が青白く私の肌を染めている。

開け放たれた窓から見上げると、雲一つない夜空に月が真円を描いている。

満月。

月の光が狂気を呼ぶといったのは誰だったろう。

ベッドから体を起こして部屋を見渡す。

私の体を覆っていたシーツが滑り落ちた。

何もない部屋。

二人目の匂いすらついていなかった部屋。

ただ、微かに、本当に微かに、彼の匂いだけがついていた。

二人目にも彼の匂いはついていたのだろう。

私はどうなのだろう。

私にも彼の匂いがついているのだろうか。

彼を見下ろす。

月の光に照らされた彼は、微笑んでいるように見えた。

先ほどまでの激しさが嘘のように、静かに眠っている。


もぞり


彼が動いた。寝返りでも打とうとしているのだろう。


くちゅ


彼に跨ったままの私の脚の付け根から体液が漏れる。

彼の身体はまだ私の中に入ったままだ。

私の身体が彼の命を吸い取ろうとうごめく。


もぞっ


ぐちゅ


目を覚ましそうだ。

また始まるのだろうか。

彼が私の部屋で生活するようになってから、毎晩私たちは肌を合わせる。

まるで夜の闇に、月の影に脅えるように、彼は激しい。

彼が疲れ果てて眠りに就くまで私たちの交わりは続く。


ぐちゅり


彼が大きく身動ぎする。

月の下で白い彼の顔の中に、暗い穴が二つ口を空ける。

夜の湖のような瞳の中に月が映っている。

私たちはお互いの目を見詰めている。

永遠のような一瞬が過ぎ、彼の口から細い吐息のような声が漏れる。


「綾波、のいて」


ちゃぷ


彼の上から腰を上げた私の太股を体液が伝う。

ベッドに腰掛けた私は彼を見つめる。

彼は寝ているかのように、全く身動きせず月を眺めている。

窓から入ってきた風が、私たちの体を撫でる。

幾度か、風が私たちの間を通り抜けた後、月を眺めたまま彼がいう。


「綾波、ありがとう」

「何が?」

「いろいろと」

「そう」


沈黙が降りる。

また幾ばくかの時が経ち、彼が話し出す。


「レイ・・・」

「なに?」

「レイの所にいく」

「どうして?」

「アスカもカヲル君もいる。もういいんだ行っても」


彼はふらりと立ち上がり、衣服を纏い始める。


「碇君。二人目は死んだわ。もう何処にもいないのよ」

「レイはいるよ。湖の底で眠っている」


彼はおかしい。止めなければいけない。


「二人目は消えたわ。一欠片の肉も残さずに」


異常とは、おかしいことをおかしいといえないことだ、といったのは誰だったろう。

では彼をおかしいと思う私は正常なのだろうか。


「レイは湖にいるよ。僕がそう思っているから。レイはあそこにいる」


いえ、私は生まれたときから狂っている気がする。

なぜなら、私も二人目にそこにいてほしいと思うから。

私の魂に彼だけを刻み付けて消えていった、二人目の私。

大切であったはずの想いは、すべて持っていってしまった、もう一人の私。


「本当に、彼女はそこにいるの?」


私は何を言っているんだろう。

すぐに連絡して彼を拘束しなければならないのに。


「綾波」


着替えを終えた彼が私の前に立っている。

私の見たことのない、二人目の死ぬ前の微笑みを浮かべながら。


「綾波は人間だよ。だから、自分のことは自分で決めないといけないよ」


私は彼を見上げる。


「碇君」


彼は月の光に照らされて、まるで天使のようにやさしく微笑んでいる。

彼が私を見ている。

三人目の私を。


「綾波の望みはなに?」


私の・・・・・望み?


「綾波の願いを叶えたらいいんだよ」


私の・・・・・・・願い?

私の望みは・・・無への回帰。

私の願いは・・・・・・・・・

二人目の私に会うこと。

二人目の私に会って、私が失ってしまったものを取り戻すこと。

失ってしまった絆を。

決してかなわない願い。

なぜなら、

彼女の魂は、

ここにあるから。

私の中に、宿っているから。

決してかなわない、願い。

願えば奇跡は起きるのだろうか。

だから、私はもう一度問う。


「彼女はそこにいるの?」

「いる」


彼の言葉に論理はない。

彼が信じるから、彼女は存在する。

ならば私も信じたい。

彼は私を見てくれたから。

もう創造主の言葉は、彼の言葉に優先するものではないから。


「碇君。二人目の所へ行けばあなたは死ぬわ」


最後の警告。

彼を守って死んでいった二人目のための。

私の中のわずかな感傷が吐かせた言葉。


「使徒はもう来ないんだ。EVAはもう必要ないんだよ」

「そう。もう私たちは必要ないのね」


そして、私たちは夜の湖に向かって歩き出した。

二人目の眠る所に向けて。





私はもう一度「綾波 レイ」に戻れるのだろうか。